もうずいぶん前のことだが、偶然にも荒尾競馬で八百長事件があったことを他の調査の最中に発見したことがあった。
その記事には関わった騎手数名の実名が記載されていたが、見覚えのない騎手でそれ以上の追跡をせず。
数年が経ち、継続して福山競馬の調査を更に進めていたため周辺を含む知識の量が増していくなかで、ふと改めてその八百長騒動の記事を見直し、逮捕された騎手が福山で騎乗経験のある騎手であることが判明した。
福山が関わっている以上、手を付けられる範囲の調査はかなり進んだ今、新たな発見を求め調べてみる価値は十分にあると踏んで調査を進めた。
先に述べておくと、以前公開した高知競馬の八百長事件のような詳細な情報は見当たらなかったため、内容としてはかなり薄いものである。
今回も渦中の人物の名は伏せる。
参考は1969年11~12月の熊本日日新聞および西日本スポーツ。
1969年11月25日 荒尾競馬八百長発覚で5人が逮捕、4人を指名手配
1968年11月から69年7月までに、暴力団村上興業幹部A、同組員Bらが騎手をキャバレーやバーでもてなし八百長を依頼し実行させていたとして、前述の2名と元山代組幹部で土建屋C、貸厩舎業D、元騎手E(福山で騎乗経験あり)の4名を逮捕。
更に土建屋(飼料納入業)F、元騎手で馬丁G、騎手H(福山で騎乗経験あり)、騎手I(当時未成年で福山市在住)を指名手配した。
捜査は11月はじめから開始されたが、その契機となったのは村上興業組長Jが10月に行われた一斉手入れで逮捕を逃れ指名手配されたことに端を発する。
村上興業について調べを進めていく中で、Aらが関与したEの指詰め事件が判明、荒尾競馬で八百長レースが行われていたことを突き止めた。
11月26日 村上興業組長Jが出頭
11月26日午前0時、Jが大牟田署に出頭し逮捕。
Jは在日外国人で、同月6日に在留許可期限が切れ、入国管理事務所三池港出張所が不当在留容疑で調査を進めており、また自身の直接指名手配となった容疑に加えて今回の競馬事件で大々的に村上興業が報道されたため、逃げきれないと判断し出頭したとのこと。
これで荒尾競馬八百長事件の核心に迫ることができるようになると期待されている。
荒尾競馬 年内の残りの開催を自粛することを決定
紙面に掲載された管理者の中止決定に関する全文は以下の通り
今回の不祥事件は一般社会並びに関係各位に対し、誠に申しわけない仕様と相なり謹んで陳謝します。
雨降って地固まる結果を得るために直ちに今後の善後策を講ずる必要がありますので後半の11月28・29・30日の開催は自粛し中止します。昭和四十四年十一月二十七日 荒尾競馬組合管理者
この自粛が地方競馬では初となる八百長による開催自粛と言われており、同じ年度の70年2月にも八百長事件等の不祥事続出で福山競馬が3月の開催を自粛。
この時に「荒尾競馬に続き2例目」と報道されていたことに従えばその通りなのだが、姫路競馬が開催できなかったのも同様だった気がする。
ただし園田では開催していたので、主催が兵庫県ということで考えれば開催していないということにはならないためだろうか。
なお、この善後策には競馬場の移転問題も含まれているとも述べており、これ以前から競馬場の移転問題を抱えていたことが伺える。
12月3日 騎手2名を逮捕
八百長事件に関わったとして、新たに騎手Kと騎手Lを逮捕。
この2名はEの指詰め事件に発展したレースの八百長に関わっており、KはDより「3着以下になってくれ」と頼まれ6着に、LはBから同様の旨を頼まれ4着になった。
12月10日 荒尾市議会が八百長問題で紛糾
社会党議員Mの追及と、それに答える市長Nを中心に議会は紛糾した。
M「一年以上も前から暴力団が介入して八百長を仕組んでいたというのに、当局は気づかなかったのか。本会議を通じ、市長は市民に陳謝すべきだ」
N「八百長については全く知らなかった。遺憾なことではあるが、市長として本会議場で陳謝するスジはない。市も被害者だ」
M「不祥事を引き起こすような状態にある以上、競馬を廃止すべきではないか」
N「競馬に限らず公営ギャンブルは”社会的必要悪”の認識に立っている。市の財源に大きく寄与しているのも事実だ。廃止の考えはない」
M「競馬開催中に数十人の市職員が手伝いにかり出されているが、おかしい。どうなっているのか」
N「協力の意味で専門従事員の足りないところを補充している。手当は競馬組合が出している」
M「競馬を中、高校生が集団で見物し、中にはカネを出し合って馬券を買ったという事実もあるが、知っているか」
O「初めて聞いた。驚いている。補導センターなどを通じ、実情調査するいっぽう、対策を検討したい」
午後五時に議会は散会。
大牟田署が選ぶ管内の十大ニュースのトップに荒尾競馬八百長事件が選ばれる
大牟田署が12月23日に発表した管内での十大ニュースのトップに荒尾競馬八百長事件が選ばれた。
最初の逮捕者が出て一月も経っていない中で他の事件を差し置いたように、かなりの衝撃を与える事件だったことが分かる。
さて、これ以上は記事を探しても特に何も続報はなく、指名手配された者たちがその後どうなったのかも不明。
ここからは八百長が行われたとされるレースについて見てみる。
指詰めの直接の原因とされるレース
1969年7月18日の第4レース、C級1400m戦で八百長が行われた。
印 | 枠番 | 馬名 | 斤量 | 騎手 |
---|---|---|---|---|
〇 | 1 | オパールヒメ | 54 | K |
◎ | 2 | アヤツバサ | 55 | 山田 |
△ | 3 | エリコ | 54 | L |
4 | ニユーアヤオー | 55 | 中尾 | |
× | 5 | スイゲン | 55 | 白坂 |
6 | ミスヨシオー | 54 | E |
このレースでEとKとLに対して着外に入るように指示され、KとLは指示通り着外に(Kは6着、Lは4着)入った。
しかしEは4コーナーを回るまで手綱を絞って着外になるようにセーブしていたが、騎乗馬が元々本命に推されていた実力馬(上記の印は無印だが)。
これ以上手綱を絞っていては怪しまれると思い、手綱を緩めて鞭を入れると後方からどんどん順位を上げ、1着馬と同タイムの2着となってしまう。
八百長は失敗に終わり馬券が外れた損金10万円のうち、5万円をEから恐喝した上に小指を詰めさせた。
なお配当は3,640円だった。
このレースの後に指を詰めたのだが、それがこのレースの後すぐなのか開催が終わってからなのか、はたまた金を渡せないことが確定してからなのかは不明。
しかし少なくともこの日以降から10月前後までは騎乗しており、小指を詰めた状態でレースに臨んでいたのかもしれない。
その他の判明している八百長レース
1968年11月10日の第6レース C級1400m
印 | 枠番 | 馬名 | 斤量 | 騎手 |
---|---|---|---|---|
◎ | 1 | バルカン | 55 | 前田 |
2 | ギヤラント | 54 | E | |
3 | トキノハル | 55 | 岩田 | |
4 | イマハクリユウ | 54 | 白坂 | |
× | 5 | サンセイ | 54 | G |
6 | スペシアルメリー | 54 | K | |
〇 | 7 | フクヤカ | 54 | 藤川 |
このレースで八百長を行ったことが確定しているのは吉田厩舎所属のEとGで、他の名を伏せている騎手がこのレースに関わっているかは不明だが、伏せていない騎手も含めて他の騎手も関わっている可能性はあると思う。
八百長は成功し配当1,490円に対して59,600円の配当、つまり40枚的中したとのことだが、このレースでEとGが”着外”に入るようにしたと報道されていて、実際はGが1着になっている。
しかし配当が40枚分と等しいので、Gが勝つように仕組んでいたのではないかと推測する。
1968年11月11日の第4レース、C級1400mも八百長が仕組まれた。
このレースは出走表が完全ではないが、判明している騎手にEとGがおり、共に3着以下になっている。
配当は600円
1969年7月26日の第5レース、C級1400m
印 | 枠番 | 馬名 | 斤量 | 騎手 |
---|---|---|---|---|
× | 1 | ロツクメリー | 54 | K |
2 | レオポート | 55 | L | |
3 | バツテン | 55 | H | |
◎ | 4 | ホークス | 54 | 大秋 |
△ | 5 | ダイイチヒーロ | 55 | E |
〇 | 6 | スモールヒメ | 54 | 清田 |
当たり前かもしれないが、八百長が組まれているレースは逮捕・指名手配された騎手が大半を占めている。
このレースはLとHが1着2着で配当が520円。
Eの指詰めレースで無印なのに本命と報じられていることから、印があまりアテにならないのかもしれないが、このレースは無印2頭が上位着順で520円の配当と気になるところではある。
もう1レース八百長を行ったレースがあるとのことだが、それについては存在以外に明記されたものが一切なく不明。
八百長の手口
事前に打ち合わせを行うが、その打ち合わせは前日深夜からレース直前の装鞍所までで行われていた。
指示は返し馬の際に、帽子のヒサシに手をやれば1着に入れ、横に向けたら着外になれというブロックサインを送る単純なものだった。
当時の荒尾競馬の状況
年8回開催で1開催6日間の48日開催で、荒尾所属馬は約120頭。
騎手免許保持者は46名だが、これは九州各地で騎乗するため、荒尾で常時騎乗する騎手は24名。
開催中は審判員5名に加えて地方競馬全国協会から専門監視員が立ち会い、不審な点があれば処分を決めるが、証拠がつかめず騎乗停止は1968年6月29日にEが騎乗停止処分になった以外には特に何もなかった。
この当時は荒尾だけではないが、競馬場内にガードマンを配置するようになったばかりで、観客と騎手との接触もレース直前まで自由であった。
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