1981年 高知競馬を舞台に起きた大規模八百長事件の経過

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以前更新していた1981年の高知競馬出走表の記事。

1981年第5回高知競馬1日目
桟橋競馬時代の、ネット上には載っていない出走表。 当時の高知競馬は騎手の1日の騎乗制限が6鞍。 この開催から在籍する騎手の数が11名となり、10レース編成でフルゲート8頭の高知競馬場では最大で延べ80名の騎手が必要となるが、11名で...

同年6月に判明した八百長事件によって当時の所属騎手18名中7名が騎手免許をはく奪されたことにより騎手が不足し、当時1日6鞍の騎乗制限があった高知ではフルゲート8頭でも11名では10レース編成が組めないため応援騎乗を求めた。

この時に福山からの応援騎乗で荻田騎手が重賞を制していたことがきっかけで調査をし、その調査結果として福山の応援騎乗があった開催について全レースの出走表と簡易の結果を記事にした。

1981年第5回高知競馬5日目
この日はアラブ優駿にあたる長尾鶏賞が行われ、福山から応援騎乗の荻田騎手が1着。 NAR上に忽然と表れる荻田騎手の名に、「なぜ高知のレースに荻田騎手が?」と常々疑問に思っていたのが発端になった今回の調査。 もちろんその経緯を知ることが...

八百長事件判明から開催時自粛の解除までを洗いざらい併せて調査をしたのでここにその経過を記していく。

なお当時の渦中にあった人物については全て名を伏せる。

参考は高知新聞朝刊及び夕刊の1981年6月17日~8月29日の同記事。

6月16日 覚せい剤取締法違反で逮捕

リーディングジョッキーに過去何度も輝いた騎手Aが覚せい剤取締法違反で逮捕。

それ以前の5月29日に逮捕されており、拘置延長中に追及しているので正確には再逮捕ということになるか。

これは警察が「騎手間で覚せい剤が出回っている」という情報を入手し、噂の渦中にある騎手を内偵していたところ、Aが使用していることを突き止めたため逮捕に至った。

この覚せい剤事件の背後には暴力団の介在が懸念されており、追及を続けていく中で未曽有の大事件が明らかになっていく。

6月17日 事件は八百長へ発展

A騎手を追及していくと、警察は覚せい剤事件の裏で組織的な八百長が行われていることを突き止めた。

17日早朝に馬主Bを競馬法違反で逮捕、また騎手2人と馬主1名に任意出頭を求め、同日中に任意出頭した3人とAに覚せい剤を渡した1名を逮捕。

馬主Cは80年7月、Aの自宅で「負けてくれないか」と持ちかけ謝礼を渡すことを約束。
81年4月にも「なんとかならんか。小遣いも欲しいだろう」と八百長レースを依頼。
この依頼を受けてAは騎手Dに「先に行かせてくれ」と言って共謀し、CはAに謝礼30万円を支払った。

騎手Eは80年10月のレースでAに「今日は先に行くから行かせてくれんか」と依頼。

騎手Aと馬主Bは親しく、80年10月に開催されたレースの内3レースで、Bが「2着以内には入らないでくれ」などと頼み、Aはその指示通りに騎乗。
同年11月、BはAに謝礼として現金10万円を渡した。

八百長グループは2つあることが判明しており、そのうちの1つはB-A・Eのルート、もう1つはC-A・D。
つまりAが八百長の中心人物の役割を果たしていた。

この段階で八百長レースは20前後組まれていたとされるが、失敗することもあった。

この八百長レースは80年から本格的に行われるようになり、騎手間で「俺は引く」「先に行かせてくれ」といった会話が日常的にされていたという。

6月18日 更に数名の騎手が関わっていることが判明

警察は追及を続けており、「八百長を持ちかけたが金は渡していない」「金は貰ったが賄賂ではない」「これぐらいはみんながやっている」「確かに八百長をしたが失敗したので八百長ではない」と供述している。

この事件について外部から、「出走時間前に騎手がスタンドにいる人物にブロックサインを送っている」「馬は万全の状態に仕上がっているのに騎手が操作して走らせなかった」「特定の客に騎手がいつももてなしを受けている」等の情報提供もなされている。

このような様々な情報から八百長に関わっている騎手が更に数名リストアップされ、逮捕した6名のうち競馬法違反に関わる5名の拘留延長手続きを取り引き続き捜査していく。

一方、19日より競馬の開催を控えた高知競馬は18日午前に競馬の開催を決定。

3名の騎手が逮捕されたのに加えて2名はケガで騎乗できず、不足した騎手は福山競馬から3名の応援騎乗を求め、騎乗申し込みの手続きを済ませた。

しかし八百長に関わっているかもしれない灰色騎手も出場するため、「疑惑を残したままの開催でいいのか」との声が上がっており、開催を決めてから4時間後に一転して中止を決定した。

6月20日 八百長事件はさらに拡大

事件の追及は連日行われ、ついに音を上げ余罪を自供する者も表れ始めた。

Aは過去に八百長を数十回行ったと自供しているが、「Bに頼まれ仕方なくやった」とも述べている。

AとBは八百長を始める以前より親しく、もてなしを受けたり借金をしたりしているうちに八百長を断れなくなっていったそうだが、Bは最初から八百長を依頼する計画のためにAに近づき、情報提供の謝礼と称しAを金と義理の両面で雁字搦めにしていった、という見方もでている。

こうした八百長レースでは配当が1000円から3000円ほどになるレースがほとんどで、Bはそのレースの配当金によって数万円から30万円の謝礼を騎手に渡した。

7月2日 八百長事件に暴力団が介在していることが発覚

これまでの調べから暴力団が絡んでいることを突き止め、2日早朝に一斉手入れを実施。
暴力団「豪友会」幹部Fを逮捕し、新たに騎手Gと元騎手Hに任意聴取を求めた。

Fは80年10月のレース当日の午前9時30分に、Eに対し「馬の調子はよいということだが、がんばってくれ。お前は勝つことだけを考えればよい。手は打ってある」と2着以内に入るように八百長レースを依頼し、レース後に高知市内のスナックでEに現金10万円を渡した疑い。

このレースは6月17日の騎手Eは80年10月のレースでAに「今日は先に行くから行かせてくれんか」と依頼した件であり、更にそのレースはBがAに八百長を依頼していたので、BとAすらもFが操っていた疑いが生じた。

暴力団幹部の逮捕で事件の核心に迫っていく一方で、「言うことを聞かなかった騎手に暴力団が脅しをかけた」という情報も寄せられており、これらの裏付けを進めていく。

この日の夜、任意聴取を受けていた騎手Gと元騎手で現調教師のHが逮捕された。

Gは80年11月にEから「先に行かせてくれ」と頼まれ、「行くやったら行きや」とその要望を受け入れた上に、その謝礼としてEから5万円を要求した(八百長は失敗で現金の受け渡しは行われなかった)疑い。

Hは80年10月のレース当日午前9時にFから「Aの馬をつぶしに行け」と八百長の依頼を受け実行、Aの馬にせりかけて着外に落としレース後にFから謝礼10万円を受け取った疑い。

この「Aの馬をつぶしに行け」というのが、FがEに対して述べた「馬の調子はよいということだが、がんばってくれ。お前は勝つことだけを考えればよい。手は打ってある」ということにつながる。

7月3日 暴力団の名義貸しが判明

Fの逮捕をきっかけにFが以前は妻の親類名義、その親類が亡くなってからは知人名義で競走馬を数頭所有していることが判った。

こうした名義貸しで競走馬を所有している例の大半は暴力団関係者によるもので、「俺の馬だから安心して八百長をやれ」と言われた騎手もいた。

7月4日 全面的に八百長の事実を認める

これまでの調べに対し全面的にその事実を認めており、その余罪についても話し始めている。

EとFは公私にわたる付き合いがあり、Eが益田競馬から高知競馬に移籍する私的なトラブルの解決にFが手を貸したことがことがきっかけ。

そのようなことから競馬関係者はEとFの関係についてはよく知っており、Eが逮捕されたときには「もしEがFのことをしゃべったら大変なことになる」とうわさが流れたほど。

こういった関係はEとFに限ったことではなさそうで、他にもそのようなスポンサー付きの騎手の名がすでに何名か挙がっている。

また暴力団の指示に逆らったことで暴力団から脅迫を受けた、あるいは暴力を振るわれた騎手もいるといわれている。

7月7日 八百長のからくりが判明

まず、八百長レースはほとんどが1410mのレースで行われていた。

これは「比較的距離が短く、コーナーを5回通過するため直線では難しいせり落としのチャンスがある」という理由。

このことから再開後のレースでは1410mレースは廃止された。

また八百長を成功させるために複数の騎手に指示を出していた。

騎手たちの証言を照らし合わせると80年10月のレースでは以下の関係が成立していたことが判る。

高知新聞に掲載されていたものを一部改変して作成

この段階ではBとFが繋がっていたかどうかは不明だが、繋がりはあったと考えるのが自然だろう。
ちなみに馬主Bの名前を検索すると後に豪友会に属し自身の姓を組の名とする組を持つ、すなわち組長となっていることからも繋がっていた可能性は高い。

他にリストアップされた騎手についても八百長関与の裏付けを進めている。

7月13日 新たに3名の騎手が八百長に加担したことが判明

今回関与が明らかになった3名の騎手は、これまで明らかになった八百長レース以外の八百長レースに関与しており、背後には別ルートの暴力団が絡んでいる可能性があるという。

7月14日 疑惑の騎手2名が逮捕

14日朝から任意出頭を求め追及していた騎手2名の容疑が固まったとして同日夕刻に逮捕。
これらの騎手はレース中に八百長の交渉をした者も含まれるとのこと。

騎手Iは81年6月(Aが最初に逮捕された5月29日以降)に、他の騎手から「逃げらせてくれ」と頼まれ「行けや」とこれを了承、不正レースを共謀した疑い。

また騎手Jは80年2月、レース中に第2コーナー付近でJを追い抜こうとした騎手に対し「入るな、行かせてくれ」と依頼し、相手の騎手も「もう少し待ったら行かせてやる」と了承し、八百長レースを共謀した疑い。

もう1名の騎手は県外に出ているため、戻りしだい任意出頭をを求め追及する。

IとJは当初から名を挙げられていた八百長常習騎手で、暴力団関係者とのつながりも以前からあったらしい。

特にIが騎乗する馬は必ず暴力団の息がかかった馬という定説すらあった。

7月15日 もう1名も逮捕

県外に出ていた騎手Kを新たに逮捕。

Kは81年4月のレースで、他の騎手から「先に行かせてや」という依頼を受け了承、不正レースを行った疑い。

このKも当初から名が挙がっていた騎手で、Fとのつながりが以前からあったという。

8月2日 新たに暴力団組長ら2名を指名手配

この日、新たに八百長事件に関与していた暴力団中井組内L組組長Lと、同組員Mを指名手配した。

Fと共にこの八百長事件の中心人物として名が挙がっていたLは81年1月のレースで逮捕済みの騎手に「2着以内に入らないようにしてくれ」と依頼し、実行した騎手に報酬として現金数万円を渡した疑い。

Mは80年7月にLが八百長を仕組んでいることを聞き馬券を買ったが外れたことに腹を立て、レース当日に該当レースに出場した騎手(逮捕済み)を「今日のレースはどうなっているんだ。ぶち殺すぞ」などと脅した疑い。

L組の組長であり中井組のナンバー2でもあるLは、Fと同様に最も多く競走馬を所有する組関係者の一人と言われており、これで当初から名の挙がっていた人物が出そろい大詰めを迎えた。

この時、山口組組長田岡が死亡し、その下部組織にあたる中井組組長中井啓一は舎弟ということで、中井組の去就を巡ってナンバー2のLの立ち回りが重要な局面ということもあって、逮捕を免れるために息をひそめているのではないかという推測も出ている。

8月5日 L組組員Mが出頭

指名手配されていたMが出頭し逮捕。

だが「組の幹部から出頭するよう言われて出てきた。脅迫した覚えはなく、何も知らない」と供述している。


Lは逮捕されていないが、以上をもって一連の騒動は一応の幕を閉じた。

現役騎手が7名逮捕という未曽有の事態でこの間の競馬開催は行われていない。

競馬が再開されたのが、以前にも記事にした1981年8月29日のことで、応援騎乗を各地から募り開催に何とかこぎつけた。

高知競馬 8月29日から再開

騒動が落ち着き、名義貸し排除を確信できたことから競馬の開催を了承された。

競馬開催ができない間に馬主が9人減少で217人に、競走馬は64頭減少(新馬19頭増加で計45頭減少)。
その64頭は屠殺及び屠殺予定が31頭、転出29頭、引退が4頭。

100頭を超えると言われていた名義貸し馬だが、減少は64頭と少なかったことで指摘も受けたが、「残った585頭は名義貸し馬でないと確信している。新馬は1頭ごとに誓約書を提出させる」と答えている。

開催できなかった計2開催は延期とし、年内に組み入れる方針。

開催初日の状況

馬場の周囲が外から見えないように塀を設け、騎手の調整ルーム入室が前日からに改められた。

当日の警備員の人員を従来の2倍になる6名配置し、全署員が署で待機して万一の場合には県警機動隊に応援を求める警戒態勢をとった。

旧高知競馬の外きゅう

今回の事件が明るみになった際、最初に指摘されたのが外きゅう舎の存在。

今でこそほとんどの場合、地方競馬は競馬場内に全厩舎を集約しているが、この時の高知競馬は場内に225頭分、残りの約500頭分は吉川村や越知町などに点在する外きゅうであった。

外部との接触が管理できず八百長の温床と言われた。

現在の競馬場に移転する計画も、この外きゅう舎の問題がきっかけである。

とはいえ、内きゅう舎が安全だったかと言えばそうでもなく、開催が近づくと黒塗りの外車が頻繁に出入りしていたという。

高知には馬主になりたがる人が多い?

この当時の桟橋競馬では、1レースのフルゲートが8頭で1日10レース編成。

1開催6日間なので最大で480頭が出走できるのだが、この時の高知競馬はそれより遥かに多い頭数が在籍できた。

すると出走したくてもできない馬が多く生じることになるが、出馬投票をして出走できなかった馬には手当が10万円弱支払われることになり、財政が圧迫される。

そこで所属できる頭数を738頭までとし、新規の馬主は所属頭数が制限を下回っているときにしか認められないことになった。

馬主になりたくともなれない場合、既に馬主となっている者が馬籍を賃貸しや高値で売買することで馬主になる資格を得ることになるが、この時に暴力団組員や騎手が名を表に出さず競走馬を所有する名義貸しが頻発したそうだ。

そして自ら所有する馬であれば八百長レースをしやすくなり、この度のような大規模な八百長事件が起きた。

1980年代に突入したばかりの頃はどこの地方競馬も非常に盛り上がっていたが、特に高知はその県民性からか、賞金や規模と比べて馬主になりたがる人の数が非常に多かったという特殊な事情が八百長事件の根底にあった。

少ない騎手、安い賞金

最初に述べたように、事件が発覚する前の所属騎手は18名。
1日全てフルゲートなら80頭が出走するが、騎乗制限が6鞍なので制限いっぱいまで騎乗するとしても騎乗しなくても良いのは4名。

そういう状況なので全ての騎手に満遍なく騎乗馬が巡ってくる状況だったのだが、この状況も八百長が起こった原因になった。

「あの騎手はおかしい、八百長をしているんじゃないか」と思っても、その騎手を乗せない余裕はなく、おかしいと気づいていても乗せざるを得ない状況だった。

ではその騎手不足の原因はどこにあるかと言えば、安すぎる賞金額にある。

この当時の高知競馬で最も安い1着賞金は27万円。

どん底の状況だった時のことを思えばかなり良いのだが、他の競馬場の賞金が軒並みよくなっていく中でこの賞金水準では、何か事情がない限りは高知の騎手を志す者は少ない。

事実として、この当時から高知に所属する騎手には他場から移籍してきた騎手が多かった。

当時の馬主はこの時の高知競馬騎手の平均年収が300万円と述べており、「安い賞金でまともに走っても仕方がない騎手、高い金を支払っている名義を借りた馬主、名義貸しの間に入り利ザヤを稼ぐ調教師」が自らの利益を追求した結果がこの大事件の規模が無尽蔵に膨らんでいく手助けをした。

主催者の対応

この時の八百長事件は初めてではなく、1972年にも八百長事件があった。

最初の八百長事件のあと調整ルームを建設したが、開催前夜からは調整ルームにいなければならないところ、早朝の調教が終わってから調整ルームに入らず家に帰宅し朝食をとる騎手が多くいたり、あるいは八百長をする上では前日に騎手を全員集める調整ルーム内の方が八百長を企てやすいという本末転倒な利用のされ方であった。

能力検査では薬物検査をされないことから、能力検査時には痛み止めを投与し全力で走らせ好タイムを出させる。
その馬は実戦でも人気になるが、本番ではもちろん薬物を与えないので人気になりながら凡走するため穴馬券になるという手法もとられた。

このような不正に対し主催者は毅然とした態度で立ち向かわなければならないが、組員の半数が市や県の出向職員のため異動が多く、対処がままならない。

なので事なかれ主義に陥り、改善すべき点があってもそれまでのやり方を踏襲するので一向に改善せず、最後には口を揃えて「新競馬場ができれば」。

現在の高知競馬場からすれば考えられないような主催者の取り組みである。

現在の高知競馬は、この時に膿を出し切ったからこそ?

昭和の終わり頃には各地で八百長事件が起こり、福山でも規模の大きな八百長事件が起きた。

福山の場合は「他にも関与している騎手がいる」と供述したと報じられたのだが、結局は最初に逮捕された騎手以外に逮捕された騎手はいなかった。

しかし高知の場合は関与しているとされた騎手は全員逮捕され、膿を出し切ったと言っても良い結末を迎えた。

不足した騎手を他場からの応援騎乗や移籍で乗り切り、この時に移籍してきた生え抜きでない騎手がいたからこそ、今でも続く短期移籍制度の早期からの利用に繋がったのではないか。

それでも雑賀正光調教師に対する周囲のイジメと言って過言でない扱いもあったが、それがこの程度で済んだのもこの時のことが活きていたのかもしれない。

各地で八百長疑惑が湧き上がる昨今、高知に関してはそのような声がほとんどない。

未曽有の大事件を乗り越え現在のファンから信頼される競馬場が完成したのは、このことを知った上で考えると非常に感慨深いものがある。

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