福山競馬の出走表今昔

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競馬場に入場してすぐに設置してある出走表と成績表。
新聞を買ったかどうかに関わらず持っていく人もいるが、時には席取り用に持っていかれたりもする。
でも福山の場合はマークシートの裏側に「おる」と書いて座席の上に置かれている場合が多かったかな。
まぁ、競馬場に足繁く通う人であれば、どんな用途であれ一度は手にした経験があるだろう。

福山競馬のことを調べるようになると昔の出走表や成績表の価値が高まっていった。
というのも、ネット上をどれだけ調べたところで過去になればなるほど情報は希薄で、過去の地元一般紙に小さく出走表や結果が載っていても一部の情報だけしか載っていない。
昔の情報を得るためには当時の出走表・成績表を手に入れるのが一番手っ取り早い。
競馬専門紙と比べれば必要最低限の情報だけでも、そんな必要最低限の情報すら手に入らないのだから本当に貴重な物品である。

しかし容易に手に入るような代物ではない。
ほとんどの人が手にしたことがあるものでも、大半はゴミとして競馬場に捨てられてしまう。
今では割とコレクターの類もいるが、鉄火場の名が相応しかった時代にそんなコレクターは極少数であることは容易に想像できる。
ただでさえ昔のものは手に入りにくいのに、更に拍車がかかってしまう。

それでもひょんなところで全体の一部だけでも手に入ったりする。
全ての時代のものが手に入った訳ではないが、ある程度の変遷を辿れるほどには手に入ったので紹介する。

なお、情報提供は随時募集中です。
ツイッターであったり各記事のコメント欄等でお知らせください。

出走表

今回は出走表の変遷を辿る。
福山の出走表が確認できたのは昭和30年代からで開設当初の出走表はまだ未見。
ただ同時代に開催されていた地方競馬の出走表はあり、その競馬場と成績表のフォーマットが概ね同じであったことから、おそらく出走表もほとんど同様なものだと推測する。

昭和20年代


福島県にあった郡山競馬の昭和25年の出走表。
両面印刷で、それぞれ出走表と前日の成績表が印刷されている。

騎乗者の欄が空欄になっているのは、おそらく当日に誰が騎乗するのかを決めることができたからではないか。
現在は全国の地方競馬で基本の部分は全て共通して行われているが、この頃は地方によってかなり差異があったと聞いている。
福山がどうであったかは判らないが、前日に騎乗する騎手が確定していれば騎手名も記載されていたのであろう。


当時は馬の品種に関わらず出走可能だったが、やはりサラブレッドやアングロアラブが競走能力で抜きんでていた。
しかし速歩競走であればハンデ次第では上述の品種以外でも逆転は可能。
戦後軍馬が払い下げられ馬の数が増えたと言っても能力に差があった時代には、一部の競馬場を除いて速歩競走は盛んに施行されていた。

それにしても3000メートル競走でハンデが最大620メートルもあるとは、余程の能力差があったのだろう。

昭和30年代


ハロン135号35ページより複写
昭和37年の出走表は昭和20年代のものと比べて情報量が増し、構成が20年代よりも手の込んだものになっている。
制限タイムが設定されているのは、今で言うタイムオーバーと同じ意義のものだろうか。
少なくとも能力に一定の基準を設けていたようである。

ちなみに宗綱貢氏は後年、金沢競馬の調教師として近年までご活躍されていた。

右の氏名欄は馬主名で、騎手名と同じなのは当時の制度では関係者が競走馬を所有することが問題なかったため。
昭和20年代も調教師の記載はないが、この頃は調教師という枠組みは現在ほど明確にされておらず、騎手の免許だけで馬の調教からレースでの騎乗までが可能だった。
1972年10月より調騎分離という、調教師免許と騎手免許(当時の分類では調教騎手と騎乗騎手)を分離させる制度が始まるまでは騎手と調教師が同一というケースは多かった。
福山ではこの調騎分離で末廣八十夫・東森實・鋤田久の3名が調教騎手に転身し、寺田三兄弟も順次調教騎手へと切り替えた。

騎手成績(判明分)




調教師成績(判明分)




馬主名の更に右の5マスの空欄は今開催の競走成績。
他場のものを見たところ、レース番号・着順・タイムがその欄に書き加えられるので他の公営競技の出走表と同じ扱いをしていたようだ。
1開催6日間なので、左から開催1日目~5日目の上述の情報が入ることになる。
現在でも競輪・ボートレース・オートレースでは一つの開催期間で原則毎日出場するが、競馬の場合は連日出走することはない。
しかし競走馬資源の少なかった時代には少ない頭数で競走を成り立たせるために連日の出走が認められていた。
これは強制ではなく任意であるが、馬資源が本当に少なかった時代には福山競馬の主催者が連日の出走を奨励していたようで、全ての開催で出走をした場合には特別に報奨金を馬主に贈っていたそうだ。

昭和30年代前半の結果を見ると毎日のように同じ馬名を目にすることがあったが、以下の昭和39年の出走表では最初のマスが全馬「休」となっている馬しかおらず、もしかするとこの年度から連日出走が行われなくなったのかもしれない。


ハロン135号35ページより複写
4番帽の「藤」は誤植だろうか。
この部分はそうそう間違いそうにないが・・・。
そして「ブリツカーオーワード」は10文字で字数オーバー。

昭和40年代~


ハロン135号35ページより複写
昭和41年の出走表。
まず右にあった開催中の競走成績欄がなくなったことから、連日の出走はできなくなったのだろう。
この頃の成績を見ても、週を跨いでの場合しか確認できない。
代わって右端に入ったのは調教師名で、先にも述べたように騎手と調教師名が同一になっているケースもあり、今ではむしろ目新しさすら感じる方が多いかもしれない。

連単とは馬券の販売が枠連単であることを示している。
当時は射幸心を煽ることを良しとしていなかったため、前半レースは枠連複、後半レースは枠連単の発売と制限されていた。
しかも6枠制なので組み合わせ数も8枠制と比べて少ない。


ハロン135号35ページより複写

昭和46年の出走表。
6枠制から8枠制に変更されたことが判る。
また連単の発売はされなくなり、全て連複での発売になった。

このレースは福山競馬で最後のサラブレッドだったケンシンのラストランとなったレース。
これ以降、福山でサラブレッドが走るまで34年の時を要した
ケンシンは佐賀の栄城賞の勝ち馬で、宮崎競馬の宮崎ダービーの勝ち馬でもある優秀なサラブレッドだが、最後は降級に降級を重ねてD級まで落ちてしまった。

この時代の出走表は非常に長く使われることになった。

平成~廃止


おなじみの出走表。
縦長で、騎手名と馬名以外はフォントを小さくしている。
目新しいものも無いので特に何も言うことがないのだが、敢えて言えば必要最低限を記入すればデータベースから情報を取り出し自動で出走表が生成されるようになったのではなかろうか。
インターネットが発達し、即自的に情報の更新や取得が行えるようになったことがこの出走表に切り替わった契機であるように推測する。

こうやって出走表の変遷を辿ると大きく刷新されたのは本当に僅かで、細かなマイナーチェンジも平成以降は見られなかった。
これはもちろん福山の場合で、他の競馬場ではフォーマットが同じ場もあればオリジナルなフォーマットを用いている場もある。

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