2026年2月26日に笠松競馬場ホームページにて告知された1580m競走の実施。
「日本競馬の歩み 資料編」にて過去に1580m競走を実施していたことを把握していたが、約50年ぶりの復活となる施行距離であることに主催者含め誰も触れておらず、また過去に施行していた際のレコードタイムや施行期間が気になったため調査を行った。
過去の1580m競走の実施期間について
今回の調査を行うにあたり、地元紙・地元スポーツ紙・競走馬成績書の3点を駆使すれば概ね知りたい情報が得られるであろうと目星をつけた。その中で最も情報量が多いのが、このブログの他の記事からもわかる通り地元スポーツ紙、笠松競馬の場合は中日スポーツとなる。
調査を行うにあたりヒントになるのが、先述の「日本競馬の歩み 資料編」に記載されている同距離の施行時期。
これより、昭和49年10月28日までには開始し、昭和50年12月11日から昭和51年12月11日までの間で終了したことが分かる。
また、地全協サイトより、終了時期は昭和51年5月3日以降同年12月11日までの間が終了時期というところまで範囲を狭めることができた。
以上より、開始時期については昭和49年10月を起点に遡り同年1月までの10か月分、終了時期については昭和51年5月から12月までの8か月分の中日スポーツを対象に調査を行った。その後、レコードタイムを拾い上げるために適宜同紙を用いて調査した。
1580m開始時期
昭和49年7月の開催より1580m競走の施行を確認した。
中日スポーツ紙面上では当初しばらくは1580mと明記していたが、ある時を境に実際には1580mでも表記は1600mとしていた。

昭和49年10月2日中日スポーツより抜粋

昭和50年1月30日中日スポーツ 距離表記が1600mとなっている

昭和50年1月30日中日スポーツ 1580m競走について記載
これについては憶測だが、馬柱で1580mと表記ができず従来の⑯を用い続けているので、整合性を優先し1600m表記としたものとみられる。
1580m競走施行後すぐの7月21日にパールレゲントが1.40.4の好タイムを記録した。
当時の笠松1600mレコードタイム(サラ系)は1.40.8であり、20m距離が短くなっているとはいえ、仮に1600mでも当時のレコードタイムに肉薄していたであろう。
1580m終了時期
昭和51年10月の開催をもって1580m競走の終了を確認した。
同年11月開催の初日には正規の距離で施行する注意書きが掲載された。

昭和51年11月10日中日スポーツより
以上のことから昭和49年7月から昭和51年10月までの2年と少しの間1580m競走を実施していたことが明らかになった。
1580mのレコードタイムについて
2年以上も1580m競走を実施していたにもかかわらず、今回1580m競走を実施するにあたって当時のレコードタイムを使用しないことを訝しく思ったが、1580mは一時的な施行で、いずれは1600mを再開するため、参考タイムとしての扱いをされていたためだと納得した。
とは言え、2年強もの間1580m競走を実施していれば、参考であっても、そのレコードタイムは当時の強豪馬が記録したものであろう。歴史に埋もれてしまったこのレコードタイムを掘り起こすことで、その強豪馬を浮き彫りにしたい。

昭和51年10月20日中日スポーツより
上の画像は1580m競走が最後に施行された最後の開催の初日。この時点でのサラ系の参考タイムが1.39.8と、上で述べたパールレゲントの走破タイムを上回る記録となっている。(ちなみにアラ系の参考タイムは昭和51年10月22日時点で1.40.7)
この開催中に参考タイムを上回ることがなければ、1580mのサラ系レコードタイムは1.39.8(アラ系は1.40.7)で確定となる。それでは、この開催の1580mの記録を追ってみる。
| 10月20日 | シヤチノセカイ | 56 | 原隆 | 1.43.5 |
| タイセイマーチ | 54 | 細川 | 1.44.2 | |
| セントフアイア | 54 | 松崎 | 1.42.0 | |
| 10月21日 | センターユーホ | 52 | 濱口 | 1.44.7 |
| ミスターニツポン | 52 | 細川 | 1.43.6 | |
| 10月22日 | ダイモンクイン | 52 | 伊藤強 | 1.43.4 |
| エイコボー | 54 | 木明 | 1.45.4 | |
| 10月23日 | リユウオーカン | 54 | 古賀 | 1.43.6 |
| キタノダンサー | 53 | 柴田 | 1.43.0 | |
| 10月24日 | ハローペトラ | 53 | 森下 | 1.44.1 |
| 10月25日 | リユウサンド | 55 | 古賀 | 1.42.3 |
以上よりサラ系のレコードタイムは1.39.8、アラ系は1.40.7であることが確定した。
あとはそのレコードを記録した時期を特定したいところ。
1580m開始後しばらくは中日スポーツにはすべての距離でレコードタイムの表記がなかった。
それは上で紹介した昭和49年の馬柱を見てもわかる通りで、明示され始めたのは昭和49年12月末の開催からである。
その時点ではサラ系は1.40.1、アラ系は1.41.4が参考タイムとして記載されていた。いずれも最終の参考タイムより遅いので、ここから時間の許す限り総当たりで調べていった。
サラ系のレコード保持馬
| 昭和50年1月24日 | アメリカンマキ | 55 | 山際 | 1.39.8 |
早々に参考タイムが1.39.8となったことで、すぐに発見できた。しかし、下の画像を見てわかる通り、勝ちタイムが1.39.7となっており、どちらが正しいのかこの時点でははっきりできない。

昭和50年1月25日中日スポーツより
これについては競走馬成績書を頼るのが最善だろうが、あいにく国会図書館にはこの真偽を明らかにする競走馬成績書が所蔵されていない。
だが、運よくアメリカンマキの次走がメインレースだったため、馬柱に走破タイムが記載されていた。

昭和50年2月14日中日スポーツより
この馬柱に掲載の走破タイムより当初の成績のタイムが誤記であると判断でき、サラ系1580mのレコードタイムはアメリカンマキの1.39.8であることが判明した。
アメリカンマキについて
昭和48年に道営競馬でデビュー、しばらくはパッとしなかったようだが、みるみるうちに成績が向上、笠松移籍初戦では2着に12馬身差の大差をつけて圧勝。そして2戦目が参考とは言え1580mのレコードタイムを記録と華々しい笠松デビューを飾る。
昭和50年には地方競馬の代表の1頭として中京競馬で行われた地方競馬招待競走に出走、残念ながら最下位に終わるも、昭和50年のシーズンは生涯で最も賞金を稼ぐ1年となった。

昭和50年1月22日中日スポーツより
昭和51年からは一度も勝てずに競馬場を去るが、生涯成績41戦20勝は立派である。重賞勝ちの実績はないようだが、名古屋競馬のオープン競走を優勝しており、この当時の東海公営の先頭を駆ける馬の1頭であった。
アラ系のレコード保持馬
ナーガという馬については全く不明。後述するオグリオーの成績から見るに、当時の笠松のアラ系競走馬の中で最上位に位置する1頭という立ち位置だろうか。
オグリオーについて
オグリオーの全競走成績については以下が詳しい。
デビューから抜群の安定感で常に上位戦線に顔を出し、サラ系競走に編入するまでに着外となったのはたった2回という優等生。
このオグリオーの活躍がなければ、オグリキャップはオグリキャップとしてこの世に存在しなかったかもしれない、というのはあまり知られていないが、小栗孝一氏がラジオのインタビューで「これが最後だと思って買ったのがオグリオー」と答えている。
サラブレットに挑戦を続け、サラ系競走では22戦7勝、その中には重賞競走のくろゆり賞の優勝も含まれており、その栄誉を称え引退式が実施、更には「オグリオー記念」が創設されるといった、まさにこの当時の笠松を代表する競走馬だった。
この記念競走の創設は、少し前に引退した名古屋のスーパーライトの影響もあってのものではないかと思料する。

中日スポーツ昭和50年4月14日より抜粋
オグリオーはもっと語られても良い馬だと思うのだが、笠松はオグリキャップがあまりにも印象強く、中央馬を何度も負かすくらいの実績がなければ日の目を見ることがないのだろう。
笠松競馬の1600m競走スタート地点について
1600m競走は行われていて、それが一時的に「堤防保安工事」のため1580mになり、それの終了後は2026年3月20日まで1600m競走を行っていた。
今回のこの調査で何が行われていたのかを航空写真でその変遷を追っていたところ、笠松競馬の1600mはこれまで2回スタート地点を変えていたようである。
まずは現在の1600mは以下の画像の通り。

グーグルマップより
画像に赤く丸を付けた部分からスタートしている。
1961年の航空写真を見る。

国土地理院航空写真
この当時に引き込み線はないが、1600m競走は実施の記録があることから、3コーナー手前からのスタートで実施していたようだ。
これが原初の1600mスタート地点となる。
危険であることは間違いないとしても、競走馬のレベルが現在より大きく劣るのであれば、できないことはなかったのであろう。

岐阜タイムス昭和26年1月10日
次は1969年当時のコースの状況を見てみる。

国土地理院航空写真より
現在のスタート地点に引き込み線はなく、その東隣に引き込み線が引かれている。ということは、1600mのスタート地点は、おそらくこの引き込み線の最後部だったのではないかと推測できる。
これが最初のスタート地点変更である。
現在もその名残が確認できるが、これが昔の1600m発走地点の名残だとは誰も思いもしなかったのではないか。
そこからレースが行われていたことを知っている笠松競馬のファンは、その歴が50年を超えるということか。
もしそれくらい長くファンでいる人が身近にいるのであれば、ぜひ当時のお話を聞いてみてほしい。
1580m競走が行われる約1年前の1973年の航空写真を見てみよう。

国土地理院航空写真
現在の1600mで使用している引き込み線が見えてきているが、まだ本走路と接続はされていない様子であることが伺える。
次に「堤防保安工事」の直前である1974年6月はどうか。

国土地理院航空写真
新しい引き込み線は本走路に接続されており、何やらゲートのような物が置かれているようにも見える。この時点で現在の1600mと同じスタート位置で競走を行っているのかもしれないが、これまでの引き込み線もそのまま残っているように見え、断定はできない。
「堤防保安工事」の真っただ中である1975年10月6日の状況は以下のようになっている。

国土地理院航空写真
カラーとなってより詳細が分かるようになった。
まず東側の引き込み線が、工事前までと比べて短くなったようだ。一方で新しい引き込み線については、引き込み線沿いにパトロールタワーらしき建物が建ってはいるが、本走路と砂の色が異なり、外界との明確な隔たりもないように見え、使用されているようには見えない。
これらのことから、おそらく「堤防保安工事」によって従来の1600m発走地点が使用できなくなり、当面は同じ引き込み線で1580mとして実施しながら、新しい引き込み線を造成していたものと考えられる。
堤防保安工事ということは公共工事なので、国または自治体が事業のため堤防の周辺地を取得したことで引き込み線の確保ができなくなってしまった、というところだろうか。
それならば話は早い段階から分かっていたので、工事の1年前には新しい引き込み線に着手していたのだろう。
最後に1982年の航空写真を見てみる。

国土地理院航空写真
工事完了直後の航空写真がなかったのが残念だが、東側の引き込み線は当初と比べて明らかに短くなっており、この引き込み線では1600mを施行できない。
現行の1600mスタート地点を使用していると見て良いだろう。
今回の調査のまとめにあたって
今回の調査をまとめるにあたり、国会図書館での調査でレコードタイムについてはすぐに判明した。
その外堀を埋めていくのにインターネットの力を借りると、笠松は意外と過去のことが掘り返されていないように感じた。
岐阜新聞の記者が少し記事にしているものを見つけたが、新聞記者としての立場を使わずとも、「笠松の歴史を知りたい」という思いが強ければ簡単に知れる内容だった。(あえてそのようにしているのもあるだろうが。)
馬で見るとオグリキャップを筆頭に、基本的にはオグリキャップ以降の強豪馬、それより前だとダイタクチカラとリユウアラナス。騎手で見ると安藤勝己騎手とそれ以降が頻繁に取り上げられている。
オグリキャップと安藤勝己騎手があまりにも偉大ではあるが、それだけではない。
今回取り上げたアメリカンマキとオグリオーも、当時の新聞記事を見ればスポットライトを浴びているように、時代ごとにその時代を彩る人馬の存在がある。
そういうことが感じられるサイトをいくつか見つけたので、リンクを紹介して今回の調査のまとめを締めくくる。
このまとめを書くよりも、これらのサイトを眺めていた時間の方が長いかもしれない。


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